- 現職
- 日本維新の会参議院比例区第50支部 支部長
- 生年月日
- 昭和41年8月30日生まれ 東京都出身
- 略歴
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成蹊中学・高校卒業
慶應義塾大学経済学部卒業東京三菱銀行
(高田馬場支店、デュッセルドルフ支店、ロンドン支店、営業本部等)
メリルリンチ日本証券
(投資銀行部マネージング・ディレクター)平成21年衆議院議員選挙で当選
衆議院外務委員会理事
衆議院財務金融委員会
衆議院沖縄・北方問題特別委員会平成26年衆議院議員選挙で当選(2期目)
衆議院財務金融委員会理事
衆議院原子力問題調査特別委員会理事
NC財務副大臣
党国際局局長
党幹事長代理平成29年衆議院議員選挙では41175票を頂戴するも惜敗。
捲土重来を期する。
家系図
木内たかたね支部長の履歴書 大公開!
木内支部長の詳細な経歴
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誕生1966年8月30日 東京都港区にて7歳上の姉、2歳上の兄の3人兄弟の末っ子として3,777グラムで生まれる。
1968年1月 1歳半の時に父の仕事で米国ワシントンDCへ。2歳の時から現地の保育園、幼稚園に通い4年間幼少期を米国で過ごす。当時の8ミリを観る限り、英語のピークはこの5歳の頃だったのでは…
1972年1月 米国から帰国し、地元の港区立麻布幼稚園のさくら組、もも組を経て麻布小学校に入学。当時はフィンガーファイブのアキラ、たえこ、具志堅が同じ小学校にいた。
楽しい小学校生活だったが、小学校4年生の途中で父の仕事で英国・ロンドンへ。3ヶ月間英国学校に通って現地のハイゲートジュニアスクールに編入。
1年が経った頃に父がジュネーブに転勤。兄と私は学校の寄宿舎に入り、8人部屋の中の、所謂ボーディングスクールに。サッカーでは代表チームのメンバー、チェスでは学校のキャプテン、イートンファイブの学校代表、英語が話せるようになろうと追いつくために一所懸命勉強をしていたら、英語力が上がるにつれて勉強もできるようになった。英語のネイティブに混じった8人部屋での寮生活は楽しかった。 -
帰国〜学生時代1980年1月 英語から帰国し地元の港区立三河台中学校(現・六本木中学校)を経て、中学2年からは帰国子女のクラスのあった成蹊中学に編入。成蹊高校時代は水球部に所属。3年連続で関東大会に出場したが、この試合に勝ったらインターハイというところで勝ち上がらなかった。春合宿などで毎日15km泳いだり、大学生と一緒のハードな練習をしたのは今となっては良い思い出。昔からチェスが好きだったが、高校時代は麻雀にのめり込んだ。水球部を引退したと同時に受験勉強のために麻雀を辞められたのは良かった。
1985年4月 水球の関東大会が終わってから受験勉強を開始、帰国子女で英語の貯金があったこともあり、それほどの成績でもなかったが、慶應義塾大学経済学部に入学。体育会ゴルフ部に入る。大学1年の時は野球もラグビーも慶應が日本一。現在であれば大問題になりそうな一升瓶一気などが当たり前の世の中で隔世の感。
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銀行員時代1989年4月 三菱銀行入行。高田馬場支店に配属されローテーションで窓口、外回り営業、外為、貸付(融資)。当時はバブルの最中で多くを経験させてもらった。三菱銀行採用時に他の会社に逃げないように拘束というのがあったが、作家の池井戸潤さんが一つ先輩で拘束されていた。後に直木賞作家になってビックリ。
お手洗いで用を足していたら「木内は海外でもいいの?」と聞かれ「はい」と答えたところ、翌週に支店長に呼ばれ、デュッセルドルフ支店へ転勤に。一瞬どこの国の都市なのかわからなかった。到着したら当局に検査が入っていて、いきなり夜中の1~2時まで残業。一過性の残業かと思っていたら、朝7:45には出社、夜は24:00前くらいまで働く生活が転勤まで続いた。その代わりに夏休みは2週間、冬休みは1週間強制的に取らされた。支店長は後に銀行の専務や三菱UFJ証券の社長になったり直属の課長は異常に働く人で、この職場でだいぶ鍛えられたと思う。1995年3月 ロンドン支店へ転勤に。着任して5日後に三菱と東京銀行の合併が発表される。接待があったりしても必ず会社に戻り、24:00前に帰宅した記憶が一切ないくらい、とにかく残業が凄かった。直属の上司は多分毎日2時や3時の帰宅で上司よりも早く帰宅した記憶もない。彼は残業で伝説となった人で、当時の同僚からは「1年間一緒に働いて良く身体を壊さなかったね」と今でも言われる。
ロンドン支店は現在の三菱UFJ銀行の頭取になった人もいて、今になって思うとエリートな職場だったのだろう。合併作業がとにかくきつかった。合併後は僕は末席最年少だったので東銀課、東銀から1人三菱課に。三菱課は12時まで残業。東銀課は6時くらいまでに帰れるような雰囲気があり、ロンドンの夜を満喫できた。ロンドン支店ではロンドンの名門SG Warburg などと一緒に仕事をさせてもらう機会があった。当時の雰囲気として外資系一流、日系は二流だなという肌感覚があった。そして腕自慢の先輩たちはしだいに外資系へと活躍の場を移していった。
自分も外資系投資銀行に挑戦したいと思いながらも自信が全く持てなかった頃、帰国の発令があり、営業第6部という花形営業部門に着任。帰国後に一定の成果を出して自信がついたら外資系に挑戦したいと思い、予想以上の成果が出たのでここで無謀にも外資系へ転職。 -
外資の世界、
そして政界へここで人に投資を始めていたドイツ証券に。多くの会社、やはりゴールドマンやモルガン・スタンレーなどが実績重視でマンデートを出す傾向もある中、実績の後発のドイツ証券ながら、綜合警備保障、エルピーダのIPOなどが取れ、その後も転換社債、優先株処理のためのエクイティ調達、M&Aなどの案件が順調にいき、ヴァイスプレジデント、ディレクター、そしてマネージングディレクターへと無事昇格。外資系は実力世界とよくいわれるが、ここでは内部ポリティックスがドロドロしていて、三菱銀行のロンドン時代に社内抗争劇を見ていたのが大いに役だった。マキャベリの『君主論』などもこの頃によく読んだ。
外資系投資銀行への転職はバンカーとしての自分の腕を試したいということもあったが、2000年頃に「政治家になれないか」と考えた時に、やはり「地盤・看板・鞄」がないとそもそも選挙にすら出られない、ということが明らかになった。そこで資金を貯めておこうと投資銀行に入った。
そして運命的な出会いがあり、政界へと入ることとなった。